大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

横浜地方裁判所 昭和63年(わ)2548号 判決

主文

被告人を懲役二年に処する。

未決勾留日数中二六〇日を右刑に算入する。

この裁判確定の日から四年間右刑の執行を猶予する。

平成元年三月一日付け追起訴状記載の公訴事実については、被告人は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和六三年一一月一五日午後三時五五分から、横浜市西区《番地省略》先路上において、帰宅途中のB子(昭和五五年九月二三日生、当時八歳)に対し、これを誘拐してわいせつの行為をしようと企て、「志村けんのだいじょうぶだあのテレビに出ている女の子が風邪で倒れちゃったので代わりに出ない。おじさんの車に乗らない。」などと甘言を用いて誘い、同児を自己の運転する普通乗用自動車に乗車させたうえ、同所から同区《番地省略》所の駐車場まで連行し、もって、同児をわいせつの目的で誘拐し、同駐車場内に駐車した右自動車内において、同児が一三歳未満であることを知りながら右手で同児の陰部を弄び、もって、一三歳に満たざる婦女に対しわいせつの行為をなしたものである。

(証拠の標目)《省略》

(一部無罪の理由)

一  平成元年三月一日付け追起訴状記載の公訴事実及び争点

平成元年三月一日付け追起訴状記載の公訴事実(以下、「甲野事件」ともいう。)は、「被告人は、昭和六三年九月一〇日午後一時ころ、横浜市港北区《番地省略》先路上において、通行中のA子(昭和五六年一月二六日生、当時七歳。以下、「A子」という。)に対し、これを誘拐してわいせつの行為をしようと企て、『テレビに出てみない。どこまで行くの。送ってあげるよ。』などと甘言を用いて誘い、同児を自己の運転する普通乗用自動車に乗車させたうえ、同所から同区甲野町《番地省略》所在の横浜甲野パークスクエア専用駐車場まで連行し、もって、同児をわいせつの目的で誘拐し、同駐車場内に駐車させた右自動車内において、同児が一三歳未満であることを知りながら、右手で同児の陰部を弄び、もって、一三歳に満たざる婦女に対しわいせつの行為をなしたものである。」というのである。

被告人及び弁護人は、右甲野事件について、確かに被告人は昭和六三年八月ころから一〇月ころにかけて、右公訴事実記載の場所において少女を誘拐し、同公訴事実記載のようなわいせつ行為に及んだことはあるが、そのときの少女はA子ではなく、また、犯行の日も同年九月一〇日ではありえず、右甲野事件の犯行日とされる同日、被告人にはアリバイがあるなどの理由により被告人は無罪である旨主張するので、以下検討することとする。

二  甲野事件の捜査及び公判の経過

記録及び関係証拠によると、甲野事件に関する捜査及び公判の経過は以下のとおりである。

1  被告人は、昭和六三年一二月二一日、当初は判示のB子に対する未成年者誘拐事件(以下、「乙山事件」ともいう。)の被疑者として神奈川県戸部警察に逮捕されたが、同日から右事件について、同児を誘拐していたずらしたことを認めたほか、余罪についても自白し、乙山事件についてわいせつ誘拐罪で起訴された同月二八日以後は、右起訴事件に至る主観的事情、すなわち被告人の性経験、女性との交際状況及び被告人の性的関心の傾向などについての取調べを受けると同時に、余罪についての取調べを受けることになった。

年が明けた昭和六四年一月七日に至って、被告人は、余罪のうち甲野事件について、要旨「昭和六三年九月から一〇月ころ、池辺町か川向町の路上で小学校二年生から三年生の女の子が一人で歩いていたので、車の中からテレビの番組に出てみないかと話しかけると、車にすぐ乗ってきた、そこでその女の子の家の方向に走り、四、五〇〇メートル位走ったところに駐車場があったので、空いているところに車を止めて女の子のスカートを上げてパンツをずらしたところ、三〇歳位の人が自転車に乗ってこっちを見ており、一一〇番されるのかと思って、その女の子を家の前に降ろして逃げた。」という内容の上申書を作成し、戸部警察署長に提出した。これを受けた同署の警察官が池辺町のある横浜市緑区、隣接する同市港北区の各警察署に照会してみたところ、いずれの地区でも右上申書に符合するような被害届は受理されていないことが明らかとなり、その後は、まず犯行場所を特定し、さらに被害者の特定に至るという方針のもとに捜査が進められることとなった。

右方針にしたがって、戸部警察署の警察官が平成元年一月一三日及び同月二〇日の二回にわたって被告人の引当り捜査を実施したところ、被告人が被害者に声を掛けた場所は横浜市港北区甲野町《番地省略》先路上、同人に対しわいせつ行為に及んだ場所は同区甲野町《番地省略》所在の横浜甲野パークスクエア専用駐車場であることがそれぞれ判明し、再度同所付近を管轄する港北警察署に警察官を派遣して被害申告等の有無について調査したが、やはりそのような事実を発見するに至らなかったため、戸部警察は被害者が小学生と思料されたうえ、事件発生地区を学区とする小学校が甲野小学校であったことから、今度は同校の一年生から六年生までの学級写真合計一九枚を入手し、同月二五日ころからこれを順次被告人に示して何とか被害者を特定しようとした。被告人は当初数人の少女を右学級写真の中で指し示していたものの、やがて被害者と思われる者としてA子を特定指示したため、同月二六日ころ、警察官が甲野小学校に赴き、担任の教師を介してA子に被害事実の確認をしたが、A子は被告人が申述しているような被害にあったことを否定し、さらに警察官が日を変えて自宅で母親立会いのうえA子と面談した際にも、同様に被害にあったことを否定した。同年二月一日、再度警察官がA子宅へ赴き、事情を聞こうとしたところ、A子は母親が同席することを嫌がり、警察官と二人だけで面談した結果、被害にあったことがある旨告白するに至った。

以上のように、A子からの被害申告を得た戸部警察署の警察官は、同日付で、A子の供述調書を作成し(弁護人不同意のため、内容不明)、またA子の母親であるC子から、要旨「二女の甲野小学校二年生のA子は、昭和六三年九月ころの午後一時ころ、同級生の家に遊びに行く途中、被告人から『テレビに出ない。どこへ行くの。送ってあげる。』と言葉巧みに声をかけられ、車に乗せられて横浜市港北区甲野町《番地省略》の駐車場まで連れさられ、陰部をさわられるなどのいたずらをされた事を知った、この時は、通りがかりの自転車に乗っていた婦人に見られていたおかげで大事にいたらなかったが、許すことができないので犯人を厳しく処罰してほしい。」という内容の被告人を被告訴人とする告訴状を徴し、他方同じく同日、被告人から、要旨「昭和六三年九月か一〇月ころの午後二時から三時ころまでの間に、車に乗せた女の子にいたずらをした場所は港北区甲野である、その女の子と話したことを思い出したが、その女の子は小学二年生と言っていたし、友達のところに遊びに行くとも言っていた、その女の子は、刑事さんから見せられた小学校二年生の学級写真三枚のうちの一枚の前から二列目で向かって左から四番目の女の子に間違いない、その理由は、髪の長さと顔に見覚えがあるからです。」という内容の上申書の提出を受けた。

以後、甲野事件についての捜査は急速に展開し、平成元年二月二日には、A子及び母親からの事情聴取がなされ、それぞれ同日付けの司法巡査に対する供述調書が作成され(弁護人不同意のため、いずれも内容不明)、同月四日には、被告人の、要旨「その事件を起したのは昭和六三年九月か一〇月の土曜日の午後二時ころから三時ころまでの間と記憶しているが、不動産物件の下見に行った帰りに、現場付近の道路で信号待ちをしていたところ、信号の先の道路の右側を手提げ鞄を持ってスカートをはいた女の子が一人で歩いていたので、その子を車に乗せていたずらしようという悪い気持ちをおこしてしまった、女の子を一旦追い越して道路の左側に車を止め、車に乗ったまま女の子が来るのを待ち、女の子が運転席の横にきたとき、『ちょっと。テレビに出てみない。』と声をかけたが、女の子は何の反応も示さなかったので、次に『どこまで行くの。』と聞いたところ、『友達のところに遊びに行く。』と言った、その時女の子の顔をよく見ると、丸顔で色白で髪の毛が肩まで長いかわいい女の子で、着ているものについては忘れてしまったが、スカートをはいて運動靴をはいていた、さらに女の子に対して、『送ってあげるよ。』と言うと、女の子は『うん。』と言って車の前を通り助手席のドアの方から乗ってきたため、どこに連れて行っていたずらしようかと考えながら坂道を走って行くと、坂の頂上付近にフェンスに囲まれた駐車場があった、人通りもないことからこの駐車場でいたずらしようと決心し駐車場に入った、この駐車場に入る前に女の子に『何年生。』と聞くと、『二年生。』と言うので、私はこの子は八歳ぐらいで、この辺の小学校に通っている二年生の女の子だなと思った、駐車場に入って車を停めるとすぐに、女の子が座っている助手席のシートを半分くらい倒したが、女の子は何もいわなかったので、『ちょっと見せてね。』と言いながら運転席から身をよせて、左手でスカートをへそのあたりまでめくりあげ、さらに左手で白色のパンツのゴムを持って左側にずらすと同時に、右手の人指し指と中指を使って、女の子の陰部をなでた、そんなことを三、四回やっているうちに、誰かに見られているのではないかと思って身を起こしてみると、車の正面の道路の方から白い自転車に乗った三〇歳くらいの女の人がこっちを見ていたので、ナンバーを見られたり、一一〇番されるのではないかと心配になり、女の子のいる座席シートを元に戻してエンジンをかけ、駐車場から出て、来た道を走ったが、二〇メートルもしないうちに、女の子が『友達の家はこの辺だからここで降ろして。』と言うので、そこで女の子を降ろした、その女の子は甲野小学校の二年生の学級写真三枚のうちの一枚の写真の中の、前から二列目、向かって左から四番目の女の子に間違いないと確信して上申書を書いた、被害者はその子に間違いないということであり、また、その女の子や家族の調べから、その日は去年(昭和六三年)の九月一〇日土曜日の午後一時ころということなので、その日時に間違いないと思う。」という犯行状況等を詳細に述べた司法警察員に対する供述調書が作成された。さらに平成元年二月七日には、犯行日の特定について、A子の祖母であるD子の司法巡査に対する供述調書が作成され、その要旨は「A子が誘拐された日については、A子自身、いとこのE子ちゃんたちが遊びに来た九月の土曜日と話しているので、私の家計簿に覚書程度に書いている日記で確かめてみると、去年の九月にいとこたちが来た日は四日あるが、そのうち九月三日は家族皆で川崎のお寺に行ったし、九月二四日は雨と書いてあるのでいずれも違うと思う、残るのは九月一〇日と九月一四日ということになるが、九月一四日は水曜日で、A子は給食を食べてからいつもだいたい午後二時ころに帰ってくるし、A子が誘拐された日は土曜日で、ごはんを食べてから出掛けたといっているので、九月一四日ではなく、残るは九月一〇日ということになる。」というものである(ただし、三項は不同意)。なお、平成元年二月七日付けでA子の司法巡査に対する供述調書も作成されている(弁護人不同意のため、内容不明)。

次いで、同月八日には、同日付けの被告人の司法警察員に対する供述調書が作成され、その内容は前記同月四日付けの調書とほぼ同旨であるが、被害者の特徴については、「身長一二〇センチから一三〇センチ、どちらかというと、面長の顔、色白、細身の体、髪の毛は肩までの長さ、また着ていたものは、上は薄いピンク地のTシャツ、下は紺色っぽいスカート、白っぽいパンツ、靴は白っぽい運動靴。」と供述するに至り、翌九日には経歴等を内容とする被告人の司法警察員に対する供述調書も作成された。

その後は、同月九日付けで、A子に被告人運転の車両を確認させた際の写真撮影報告書が作成されたのみで(なお、確認日は同月七日である。)、しばらく捜査に動きはなく、同月二三日になって、被告人の検察官に対する供述調書が作成されたが、その要旨は、「学校の写真を見せられた時、A子ちゃんの顔を見てすぐに自分が誘拐し、いたずらした女の子であることがわかった、それは顔の感じを覚えていたからである、ただ写真に写っているA子ちゃんは髪の毛が長かったが、私が誘拐していたずらした当時、A子ちゃんの髪の毛が長かったのか短かったのかについてまでは覚えていない、今、司法警察員作成の平成元年二月九日付け写真撮影報告書添付のNo.3ないし5の写真三枚を見せてもらったが、これらの写真は今初めて見るもので、ここに女の子が写っているが、この女の子がA子ちゃんに間違いない、顔の輸郭や口許、目鼻だちなどで間違いないとわかるが、いたずらした当時はもう少し顔が細かったような気がする、そういう意味で、警察で最初に見せてもらったクラス写真に写っているA子ちゃんの方が、私の記憶と良く一致する。」というものである。

同月二八日のA子に対する検察官の事情聴取をもって(弁護人不同意のため、内容不明)甲野事件についての捜査は終了し、平成元年三月一日付けで、被告人は甲野事件で追起訴されるに至った。

2  平成元年三月七日、被告人に対する第一回公判が行われ、被告人は乙山事件(なお、同年一月二五日付けで公訴事実をわいせつ誘拐、強制わいせつとする訴因・罰条の変更請求がなされ、第一回公判においてこれが許可された。)については、起訴事実を認める旨の陳述をなしたが、甲野事件については、わからない旨の陳述をしていたところ、同年三月二三日に行われた第二回公判において、さらに甲野事件について、そのような事実はない旨陳述するに至り、以後前記のように、昭和六三年八月ころから一〇月ころにかけて、公訴事実記載の場所において少女を誘拐し、同公訴事実記載のようなわいせつ行為に及んだことはあるが、そのときの少女はA子ではなく、犯行の日も同年九月一〇日ではありえず、右甲野事件の犯行日とされる同日にはアリバイがあると主張して、A子に対する犯行であることを否認している。

一方、平成元年五月一八日の第四回公判で証言したA子は、公判廷において公訴事実記載の被害を受けたこと及び被告人が犯人である旨供述した。

三  A子が被害を受けたことについて

被告人の捜査段階の供述を除くと、A子が犯人に自動車に乗せられて誘拐され、さらに犯人からわいせつ行為の被害にあったことの直接の証拠としては、A子の当公判廷における供述(以下、「A子の供述」ともいう。)以外にはなく、A子の供述の信用性の有無が重要な意味を有するが、そもそもA子のような年少者の場合は被暗示性が強いうえ、前項で述べたとおり、甲野事件については、被告人の自白が先行し、捜査官側も犯行状況等についてのある程度の予備知識を有しながら、A子から数回にわたる事情聴取を行ったと認められることから、その信用性の判断は慎重に行われなければならない。

ところで、A子は当公判廷において、「去年(昭和六三年)の九月一〇日の土曜日、横浜甲野パークスクエア(以下、単に「パークスクエア」という。)に住む同級生の友人宅へ遊びに行く途中、坂道の下の方から来た白い自動車が自分の側に止まり、その自動車を運転していたお父さんよりも若いおじさんから『テレビに出ませんか。』か『テレビに出ないか。』と言われた、さらにおじさんから『どこへ行くんだ。』ときかれたので、『Fさんの家に遊びに行く。』と答えると、おじさんが『送っていく。』と言うので自動車の前の席に乗った、自動車はパークスクエアを過ぎて公園のちょっと先の斜め上の駐車場まで行った、自動車に乗ったままでいるとおじさんは私が座っている椅子を下げ、パンツをちっと脱がしてお尻のところを触るというエッチなことをした、お尻のところというのはおしっこの出るところだ。」と供述し、ときに誘導的質問に対してうなずくだけの場合はあったものの、特に、友人宅へ遊びにいく途中で犯人から声をかけられ、その運転する自動車に乗ったこと、その自動車がパークスクエア先の駐車場まで動いたこと、同所で自分の座っていた助手席の椅子を下げられたうえ、パンツを脱がされておしっこの出るところを触られたことなど、被害の核心的部分については、自発的かつ明確に供述しており、しかも、その供述速記録末尾添付の地図を示されると、前記駐車場の位置についてはやや不明確ではあったものの、犯人から声をかけられた場所、わいせつ行為を受けたとされる駐車場近くの公園の場所、犯人から解放された場所などについて、その位置を即座に指摘でき、加えて、A子の母親であるC子の当公判廷おける供述(以下、「C子の供述」ともいう。)によると、A子は、どこで犯人から声をかけられ、どこまで行ったかなどを確認するため、C子及び警察官とともに現場付近を歩いた際にも、「そこじゃない。」とか「もう少しこっちの位置だ。」とか「この車の位置で、A子はこっちに座って、おじさんはこっちにいた。」などと自ら指示説明していたというのであるから、少なくとも、パークスクエアへ行く坂の途中から公園近くの駐車場まで車で連行され、わいせつ行為をされたと述べるA子の供述は、誘導、暗示に基づくものではなく、被害体験があればこそ述べられたもので、その信用性を認めることができる。右A子の供述にC子の供述及びD子の司法巡査に対する供述調書を総合すれば、A子が右公訴事実記載の日時・場所でその記載のような被害を受けたことが認められる。

四  犯人と被告人との同一性について

1  A子が、平成元年三月一日付け追起訴状公訴事実記載の日時・場所において、何者かに誘拐され、わいせつ行為を受けたことは明らかとなったので、次に犯人と被告人との同一性について検討を加える。

ところで、甲野事件の捜査は、いわゆる余罪として、被告人の自白が先行し、それによって、まず犯行場所の特定がなされ、次に被害者とみられる者として、甲野小学校児童の学級写真の中からA子が選び出されたという経過をたどっているところ、被告人は、犯行の時期については昭和六三年八月ころから一〇月ころとやや幅があるものの、公訴事実記載の場所において少女を誘拐し、公訴事実記載のようなわいせつ行為に及んだこと自体は認めており、また被告人が捜査段階において学級写真の中で被害者であるとして選んだA子も、公訴事実記載の日に、まさしくその場所で同様の被害にあったと認められるうえ、自動車に乗せる際の誘い文句にも乙山事件との共通性が認められることなどに照らすと、甲野事件も被告人が犯人であると一応認定しうるように思えるが、被告人の当公判廷における供述に鑑み、さらに詳細に検討を進めることとする。

2  A子の供述内容の検討

A子は、犯人の容貌・服装等について、丸い顔、体付きはちょっと太っていて、眼鏡はかけておらず、髪はちょっと短く、背広姿で、お父さんよりも若い人であったと供述し、公判廷の被告人席にいる被告人がその犯人である旨供述している。

ところで、犯人識別供述については、識別者が成人であってもその正確性が問題とされる場合が少なくないが、特に本件では、識別者であるA子が被害当時わずか七歳という年少者であり、そのうえA子は被害にあった事実をすぐには誰にも打ち明けなかったために、被害後約四か月以上を経てはじめて犯人の特徴を供述するに至ったという事情もあり、しかも、唯一の識別供述であるA子の当公判廷における供述は、捜査官から写真を提示されるなどして、被告人について見聞きした後の、被害時からは約八か月も経てなされたものであるから、そのこと自体からして、すでにA子が被害当時に得た犯人の同一性に関する認識を保持・再現しえたのか疑問である。

さらに、具体的に検討してみても、A子の最も早い段階での犯人識別供述が保存されていると認められる母C子の供述によると、A子は、当初、犯人はどういう顔かと聞かれても、公判供述と同様に「丸かった。」という程度の供述しかできず、また写真を提示されても被告人を明確には特定できなかったというのであるから(写真によってもわからなかったことは、A子も認めている。)、すでにその段階においてすら犯人の特徴についての正確な記憶は保持されていなかったことが明らかである。したがってその後に、より強固となった当公判廷での、被告人が犯人であるとの供述はそのとおりに信用することはできない。また、丸い顔、ちょっと太っていた、眼鏡はかけておらず、髪はちょっと短く、背広姿だったというA子の供述も、それのみをもっては、被告人を犯人と断定するに足りないことはいうまでもないところである。

3  被告人の自白内容の検討

被告人は、前記のように、捜査段階においては(平成元年二月一日付け上申書、同月四日付け司法警察員に対する供述調書、同月二三日付け検察官に対する供述調書)、被害者は甲野小学校二年生の学級写真三枚のうちの一枚の写真の中の、前から二列目、向かって左から四番目の女の子(A子・当審注)に間違いない旨、そして犯行の日時も、A子の調べや家族などの調べから、その日は去年九月一〇日土曜日午後一時ころということですから、その日のその時間に間違いないと思う旨、まさにA子の供述に符合する供述をしており、犯人は被告人であることを認めている。

そこで、この被害者識別供述の信用性について見てみるに、司法巡査作成の平成元年二月一日付け捜査報告書及びC子の供述によると、取調べ警察官が、被害者を特定させるため、被告人に示した甲野小学校二年生の学級写真三枚は、いずれも本件発生時より一年五か月も以前の昭和六二年四月の小学校入学時に撮影された古い写真であることが明らかであるが、成長期にある七歳前後の児童においては、短年月の間に、成長するのにつれてその容姿がかなりの変貌を遂げる場合があり、また髪型などはその間に変えられていることも多分にありうるから、右のような古い写真による人物識別に関する供述をそのとおりに信用することには問題があるというべきである。被告人の捜査段階の供述には、次のような疑問点がある。

(一) 被告人が供述する被害者の容貌について

被告人は、前記のように、捜査段階の平成元年二月四日付け司法警察員に対する供述調書においては、被害者は丸顔だったと供述しているものの、その後は公判段階をも含めて被害者の顔は面長であったと供述し(なお、被告人の同月八日付け司法警察員に対する供述調書では、「どちらかというと面長」と表現している。)、また被告人が、当公判廷において、捜査段階(平成元年一月二五日ころ)で取調べ警察官から甲野小学校の学級写真一九枚を示された際、被害者に似ているものとして選んだと指摘したA子を含めた三人の少女は、いずれも面長という表現が当てはまる容貌であるから、以上からすると、被告人が認識し、記憶していた被害者は、面長であったと認められる。ところで、当公判廷に証人として出廷したA子は、どちらかというと丸顔であり、司法警察員作成の平成元年二月九日付け写真撮影報告書(同月七日撮影)No.3ないし5の写真に写っているA子の顔形も同様であって、被告人が供述する右被害者像と明らかに相違し、事件が発生したとされる昭和六三年九月以後、身長も体重も増えたというA子及びC子の供述はあるにしても、A子と被告人のいう被害者とが同一人物であるかについては、この点においてやや疑問が残る。

次に、人物識別供述の正確性は事件発生時により近い時点での供述内容が重要であるが、被告人の余罪捜査初期の段階での供述(平成元年二月一日付け上申書、同月四日付け及び同月八日付け司法警察員に対する各供述調書)を総合すると、被告人が認識し、記憶していた被害者の髪型は、肩までの長さであったことが認められる。この点は、前記のように、被告人が示された一九枚の学級写真の中で被害者に似ているものとして選んだと指摘したA子を含めた三人の少女の髪が、いずれも肩に十分かかるほどの長さであることからも裏付けられる。被告人は、その検察官に対する供述調書においてのみ、当時のA子の髪の毛が長かったのか短かったのかまでは覚えていないと供述を変更しているが、それまで髪の毛が肩までの長さという髪型の特徴を被害者識別の重要な要素として指摘していたにもかかわらず、その変更理由については何の説明もなされておらず、この点に関する被告人の当公判廷における供述などに徴してみると、右の変更は、被告人が供述する被害者の髪型と前記写真撮影報告書の写真に写っているA子の髪型との相違に疑問をもった検察官が、被告人を誘導した結果であるとも解され、たやすく信用できるものではない。ところで、A子の髪の長さは、前記学級写真に写っている限りでは肩まで以上あるものの、その写真は前記のようにA子が小学校に入学した当時のものであり、C子の供述によると、その後昭和六二年の暮れに切って短くし、さらに暑くなるからということで、昭和六三年の五月か六月ころにも切ったというのであるから、事件が発生したとされる九月ころまでのわずか三、四か月の間に、A子の髪が再び前記学級写真のように肩まで以上の長さになるかは大いに疑問であるところ(前記写真撮影報告書の写真に写っているA子の髪も短めにカットされている。)、髪型が人の容貌の中で最も容易に認識しえる特徴の一つであることに照らしてみると、髪が短かったとされる被害者は、A子ではなかったのではないかという疑いを払拭できない。

さらに、被告人の平成元年二月四日付け及び同月八日付け司法警察員に対する各供述調書によると、被害者は色白で細身の体であったと認められる。前記学級写真の中のA子は確かに色白で細身の体付きをしているものの、前記写真撮影報告書No.3ないし5の写真に写っているA子も、証人として当公判廷に出廷したA子自身も色白の細身の体付きの児童には見えず、この点でもまたA子と被告人のいう被害者とが同一人であるのか疑問が残る。

(二) 被害者の服装について

被害者の服装についての被告人の供述は、やや変遷してはいるものの、右供述によると、少なくとも、被害者はピンク地のTシャツ、紺色っぽいスカートを身に付けていたと認められる。とこうが、C子の供述のほか、Gの当公判廷における供述によると、捜査の段階ではA子宅からはそれに見合うものは発見されず、しかもC子の供述によると、後になってピンク地に白い水玉のTシャツは出てきたが、紺色のスカートは現実には発見されなかったというのであるから、特に被害者がはいていたとされる紺色っぽいスカートは事件当時なかったのではないかという疑いもあり、そうすると、この点もまたA子が被告人のいう被害者と同一人であるのか疑わしめることとなる。

(三) 被害者が述べたとされる被害者の学年について

被告人は、余罪取調べのかなり早い段階での自白である昭和六四年一月七日付け上申書において、被害者は小学校二、三年生であると供述しており、その後に作成された司法警察員作成の平成元年一月二三日付け捜査報告書の第一項及び同じく司法警察員作成の同日付け引当り捜査報告書の第一項にそれぞれ記載された被告人の供述内容も同様の記載であることからすると、被害者の学年についての被告人の認識は、当初、小学校二、三年であったと認められる。ところが、同年二月一日付けの被告人人作成の上申書において、被告人は突然、被害者が小学二年生と言っていたことを思い出したと供述を変更し、その後の同月四日付け及び同月八日付けの二通の司法警察員に対する各供述調書でも、その供述が維持されている。当公判廷において、被告人は右事実を否認し、その変遷の理由については、A子が被害にあったことを告白したころから、警察官による強い誘導があったと主張するところ、前記の捜査経過で述べたとおり、A子が被害事実を告白するに至ったのは同月一日であって、被告人が突然供述を変更した日と一致し、しかも、A子及びC子の供述によると、被害当時A子は小学校二年生であったことが明らかであるから、被害者の特定についての裏付けを得ようとしていた警察官によって、何らかの誘導がなされたのではないかとの疑いもあり、被告人の主張もたやすく排斥しがたい。そうすると、被害者が小学二年生と言っていた旨の被告人の供述は、そもそもその信用性に疑問があり、結局、被害者は小学校二、三年生であったという程度にしか特定できないのであるから、被害者とA子とを結びつけるための決定的要素とはなりえず、A子が被害者であるとすることには、なお疑問が残る。

(四) 被害者が向っていたとされる場所について

被告人は、昭和六四年一月七日付け上申書においては、被害者を自動車に乗せてその家の方向に走り、駐車場でいたずらした後、同人を家の前に降ろして逃げたと供述しながら、平成元年二月一日付けの被告人作成の上申書では、被害者が友達のところへ遊びに行くとも言っていたと供述を変更し、その後の前記二通の司法警察員に対する各供述調書においても同様の供述が維持されているだけでなく、さらに右供述調書においては、被害者が友達の家はこの辺だから降ろしてというので自動車から降ろした旨の供述をなしている。被告人は、当公判廷において右供述を再び覆し、被害者は家に帰ると言っていたし、被害者を降ろしたのは同人がこの辺でいいから降ろしてと言ったからだと供述している。ところで、前記引当り捜査報告書をはじめとする関係証拠によると、被告人は、被害者の家の方向に走ったとしながら、いたずらを終えて駐車場を出る際にはもと来た方向へ引き返しており、しかも被害者を降ろしたとする場所のすぐ側は民家ではないことが認められ、これらからすると、そもそも被害者の家の方向に走ったという供述や被害者を家の前で降ろしたとの供述が全面的に信用できるかどうか疑問がないわけではないが、他方で、捜査の経過をみると、この点も被害者の学年に関する供述と同様、A子が友人宅へ遊びに行く途中に被害にあったと告白するに至ってから変更されたものであり、前同様に警察官によって誘導が行われたのではないかとの疑いもまた払拭できない。したがって、この点においても、被害者が友達のところへ遊びに行くと言ったこと、友達の家はこの辺だから降ろしてと言ったことを前提とすることはできず、A子が被害者であるとするには足りない。

(五) 自転車に乗った女性の存在について

被告人は、捜査段階においては、被害者に対するわいせつ行為をやめたのは、自転車に乗った三〇歳くらいのおばさんがこっちを見ており、ナンバーを見られたり、一一〇番されるのではないかと心配になったからであると供述し、A子も当公判廷において、右に沿うかのような供述をしているが、被告人は、当公判廷においては、右事実を否認するに至っている。ところで、右被告人の捜査段階における供述のうち、ナンバーを見られたり、一一〇番されるのではないかと心配になったという部分からすると、被害者を単に自動車に乗せていたことだけではなく、被害者に対してわいせつ行為に及んでいたことまでもその者に見られたということを前提としているかにも思われるが、助手席のシートを斜めに倒してわいせつ行為に及んだとする被告人の供述のほか、平成元年一月二三日付け写真撮影報告書添付の写真11に写った車両内の状況に照らすと、自動車の正面からわいせつ行為の状況まで目撃できるか疑問があるばかりでなく、仮に単に被害者を自動車に乗せていたのを見られただけで、そのように思ってわいせつ行為をやめたとするなら、今度は逆に、いかに人通りが少ないとはいえ、なぜ本件現場のような道路に面した場所で犯行に及んだのかの説明がつきにくい。また、A子の供述は、「車の前の方に自転車に乗ったおばさんが来たから、(触るのを)やめました。」というものであるが、おばさんが見えたという部分については、確かにその可能性は否定できないとは思われるものの、なぜ被告人がわいせつ行為をやめたのかまでは、A子にはわからないはずであり、いわば答えられるはずがないことを供述しているとも受け取れ、その信用性にやや難があるといわざるをえない。さらに、右目撃者捜しについては、警察としても全力をあげたとされているが、発見されるに至っていない。

結局、形式的には、この点に関する被告人の捜査段階における供述とA子の供述が合致しているが、そのことをもってA子が被害者であるとすることには、なお疑問が残る。

(六) 警察官に対する平成元年二月二三日付け供述調書について

被告人は、被害者の特徴の一つである髪型について、司法警察員に対する供述調書等においては、被害者の髪の毛は肩までの長さであったと供述していたのに、右検察官に対する供述調書において、突如、髪の毛が長かったのか短かったのか覚えていないと供述を変更したうえ、前記写真撮影報告書No.3ないし5の写真に写っている女の子が被告人がいたずらした相手のA子である、顔の輪郭や口許、目鼻立ちなどで間違いない旨供述しているが、髪型のほかもう一つの特徴である体付きについては何も述べていない点と右供述調書作成の経緯に関する被告人の当公判廷における供述に徴して考えると、右供述は、先にも述べたように、被告人がいう被害者の髪型、体付き、容貌と右写真撮影報告書の写真に写っているA子のそれとの著しい相違に気付いた検察官が、被告人を誘導した結果であるとも解されるので、にわかに信用しがたい。

以上の諸点、とりわけ被告人のいう被害者の髪の長さとA子の髪の長さとの顕著な差異に照らすと、被告人の自白のみをもってしては、被告人がA子に対して犯行に及んだと認定することには合理的な疑いをさしはさむべき余地があるというべきである。

かてて加えて、被告人は捜査段階から一貫して、公訴事実記載の場所で少女を誘拐し、同公訴事実記載のようなわいせつ行為に及んだのは、横浜市緑区方面へ土地の下見をするために赴いた帰りである旨供述しているところ、弁護人成田茂作成の報告書、証人H子及び被告人の当公判廷における各供述等によると、そもそも被告人は、昭和六三年九月一〇日には、同方面へ土地の下見をするために赴いていない疑いが濃厚で、そうすると被告人を犯人とするにはいよいよ合理的な疑いをさしはさむ余地が大きいといわなければならない。

五  結論

以上のとおり、A子の供述によっても、被告人の供述によっても、被告人が甲野事件の犯人であると断定するについては、なお合理的な疑いが残るといわざるをえず、平成元年三月一日付け追起訴状記載の公訴事実については犯罪の証明がないことに帰するから、刑事訴訟法三三六条により被告人に無罪の言渡しをすることとする。

(法令の適用)

被告人の判示所為のうち、わいせつ誘拐の点は刑法二二五条に、強制わいせつの点は同法一七六条後段にそれぞれ該当するところ、右のわいせつ誘拐と強制わいせつとの間には手段結果の関係があるので、同法五四条一項後段、一〇条により一罪として重いわいせつ誘拐罪の刑で処断することとし、その所定刑期の範囲内で被告人を懲役二年に処し、同法二一条を適用して未決勾留日数中二六〇日を右刑に算入し、情状により同法二五条一項を適用してこの裁判の日から四年間右刑の執行を猶予することとする。

(量刑の理由)

本件は、被告人が、わいせつ行為をする目的をもって、当時八歳の被害者に対して甘言を弄し、同児を自己の運転する自動車に乗車させて誘拐し、さらに同車内で同児に対して判示のようなわいせつ行為に及んだという事案があるが、その動機に全く酌量の余地はないうえ、幼い被害者を自己の歪んだ性的欲望のはけ口としたもので、悪質な犯行である。また、被告人には本件と同種の少女に対する強制わいせつ事件で保護観察処分を受けた前歴があるにもかかわらず、再び本件犯行に及んでおり、被告人にはこの種事犯に対する常習性も窺え、加えて、本件犯行が幼い被害者に与えた精神的衝撃はもちろん、被害者が無事に帰されたとはいえ、同年齢のこどもを持つ親たちや学校関係者に与えた影響も量刑上軽視しえず、以上のような事情を総合すると、被告人の刑責は重いというべきである。

しかし、他方で、誘拐とはいうものの、被告人が被害者を自動車に乗せて走った距離は約五〇〇メートルとそれほど長くはなく、被害者も無事に帰されていること、わいせつ行為の態様も比較的単純なものであること、被害者の家族との間で示談が成立し、慰謝料として三〇万円が支払われ、被害者の父も被告人の寛大な処分を求めるに至っていること、被告人が反省の態度を示していること、被告人の父親が被告人を監視する旨誓っていることなど、被告人に有利な事情も相当あるので、被告人に対しては、今回に限り自力による更生の機会を与えるため、その刑の執行を猶予することとした。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 杉山忠雄 裁判官 村田鋭治 齋藤正人)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例